昭和43年04月01日 朝の御理解



 今日は、皆さん、こうしてお互い信心をさせて頂いて、ほんとにおかげを頂きたい、お徳を頂きたい、と。と言うのがこうした信心になる訳で御座いますが。今日はね皆さん、いよいよほんとに、ここだと言う所を皆さんが、聞いて下さり、頂いて下さるなら、ここからおかげが受けられると言う所を、皆さん聞いて頂きたいと思いますから、どうぞしっかり聞いて下さい。
 神様のご機感に適わぬと言うか、どの様な事が、天地に対する無礼になり、どの様な事が、お互い難儀な元になり、いわゆるめぐりの元になっておるか、と。そのめぐりの為にお互いが、難儀苦労しておるのである。どう言う様な事が、難儀の元になり、どの様な事がめぐりの元になっておるのか。どの様な事が、神様に対してご無礼になっておるのか、と言う事を、まあ聞いて頂きたいと思うんです。
 ですから、ここんところを矢張り、抜きにしたんでは、結局見当違いの信心をする事になるのです。唯それは、おかげは受けられましても、やっぱ本当のおかげになって来ない。ですから、ここんところを一つ、しっかり頂いて頂きたい。私も始めて頂く事。皆さんも始めて。
 御理解第3節。読んでみましょうか。「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け。願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす」とあります。
 御理解3節。私共ここのところをですね、御理解の一つ真意というものが分からないと、こんな大事な所が分からないですよね。どう言う様な事か「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず」天地の間にこうしてお互いお生かしのおかげを頂いて、その天地のおかげを知らない。おかげを実感させて貰う。おかげを受けてるんだな、神様のこうした、間違いのないお働きの中におかげを頂いておる。
 それがいうなら、時々刻々、天地のお恵みを心に感じさせて貰うて。本当に、神恩に対しまつって、「神様有難う御座います。お取次ぎを下さる金光様、有難う御座います」言う事になって来る生活が出来なければならんのですけれども。天地の間におって天地のおかげを知らない。それは、説明を大体受けますとね、成程天地のお恵みなしには、是は人間だけではない。生きとし生ける物が立ち行かないと云う事は分かっておる。だからそれは、有難いんだけれども、その有難いものになって繋がって来ない。
 そこでですね、矢張りこの、おかげを実感させて貰う為には矢張り、素人でもいわば、凡夫でも分かる様なおかげを頂かなければならない。成程神様の御守護の中にあるんだなと言う事。昨日、親教会の四番目の息子さんの、結婚式で御座いましたから、私も参りました。それで、私はもう最後までおらずに、ちょうど前に、若先生が座っておりましたから、「もう、これから後は、宴会になって騒ぐだけだから、帰りなさるなら帰ってもいいですよ」て前から言うてくれますから。
 「なら、あんただんにお願いしとこ」と言うて立たして貰った。 立たして貰って、あの教会を出ましてすぐ行きよりましたら、横に自動車が来てから。以前私がお店を出しております頃に、その人のお父さんが、私の店におった(かわべさん)と言う方です。そこの息子さんが、今善導寺で寿司屋を致しております。もう久し振りに、合いましたが、もう何十年振りかもう、その人が寿司屋をやってる訳なんです。
 「あの合楽の先生でしょう。田主丸までお客さん送って行きよりますから、どうぞお乗り下さい」と言われた。「なら便乗さして頂こう」と言うてまあ乗せて頂いたんですけれども。それがね度々度重なりますとね、ふが良かったとは言えないのです。もう是は私が、あの親教会に参りまして、一人で帰る時に、誰かの車に便乗して、誰かが車を横付けしてくれない事がないです。もうほんとに驚くばかりです。神様がこういう御守護の中に、こういうお守りの中に何時もあるんだなと言う事なんです。
 いわゆる、天地の中にあってです、こういう天地のお守りを私は受けておるんだ。是は私だけではなくて、もう人間氏子、もう全ての者に、全ての人におかげを下さってあるんだけれども、ね、受け物が悪いからおかげが漏れると仰る。そこの所を人情を使い、人間心を使うて互い違いに成って行くのである。
 昨日、確か昨日の御理解、昨日一昨日あたりかの、ここ2、3日の御理解を頂くと、そこが詳しく分かります。私の今度、病気が非常に重くなっておると言う事。糖がもう、一番重体患者でなからなければ出さない程の様な、糖が出てる。糖尿病とは、その糖が体内から出て行くという事でして、一番そのひどい訳なんです。ひどいのが出ている訳なんです。そこで昨日、一昨日は菊栄会の方達が、私が朝「親先生どうでも一つ、神様にお願いをして頂いてから。
 しばらく、お広前の方は目をつぶって頂いて、せめて2ヶ月か3ヵ月でも入院して頂きたい。そしてまあ徹底的に、養生をして頂きたい」とこう言うのである。 まぁ言うなら。もう本当に長時間に亘って説得を受けたんですけども、私が「うん」と言わんもんですから、親先生この頃、「自己を肯定しないでの生き方」と言う事をあんなに仰ってるのに、ここだけ先生、肯定せずに私どもの言う事を聞いてくれ、てね。
 もう話を聞いておりますと、いちいち尤である。とにかくいちいち、成程そうだ、とこう思うのです。けれどもその矢張り、私が矢張り肯定するんですね。私が先生、あなたがこのお出で、ままでお出でなかったら、もう絶対早死にしなさらにゃいかん。早死にをすると言う事はね、まあそれは後が立ちましょうけれど、その為にですね、ここで信心してる者が何人か死ぬ様な事になりますよ先生。
 私が死んだら、何人か死ぬ者が出来る。それでも先生、行かんと言いなさるですか、と言う訳で、まあ強行なそれを受けたんですけれど。でまあとにかく、それでは明日そんな訳で、御主意だから(?)なら一日の日に診察だけに、まあ行こうと言う事にまあなりました。そして「どうぞ、もうそれだけは覚悟して行って下さい。医者がこのまま入院したが良いと言うなら、そのまま帰られずに、そのまま入院して下さい」と言う訳です。もうほんとに、色々一生懸命に思うて下さるその心情。
 それほど吐露しての、事で御座いました。そうして、いわば昨日の御理解になる訳で御座います。昨日、ちょっと一足遅れて、高橋さんがお参りをしてみえました。御祈念の後に。そして、御理解を頂かれて、そしてからここに出て来られてから、「私共は、昨日先生に入院をお願いしましたが、私も帰ってから色々、その考えさせられた事が御座います」と言うのは、何か良くないだったでしょうか。
 病院に入院を致しました時の、記録がずっと取ってある。細々と取ってある。その記録を出して、見て、見せて頂いておりましたら、それが先生なんと3月の31日で日切れになっております。私はこの時に、はっとする様な物を感じ、またそして、今朝の御理解を頂いてから、是は、私共が、入院して下さいの、診察行って下さいのと言うのは、今日の御理解を頂いとりますと。
 是はどうも私共の言い分が間違うておった様に思う。所謂急先鋒であったもうどうでもと言っておった高橋さんが、そう言う風に分かって来て下さった。所謂その一分一厘の間違いのない神様にの働きに恐れ入っておられる訳なんです。3月31日もうその切りになっておる。しかもあの人達が私を連れて行こうと言っておるのは、31日か4月の1日に行こうと。31日はこうだからなら4月の1日に行こうと言う事になった。
 あれを思い是を思いすると、是はもう全て神様のおかげを頂いて、神様の働きの中にある。その働きのあるが、どう言う様な御神意の中にそうあってこうあるのか、と言う事を、是は分からして頂かなければならん事に気が付いた。まあ高橋さんが分かって下さりゃ他の連中にも、またそれを説得して下さる事が出来るだろう。そして私は次の御理解を聞いて貰ったんです。丁度高橋さんがお届けされる前に、内田さんが今朝から朝の御祈念中に御心眼を頂きました。
 ここの畳廊下ですねここの廊下に、あの菊栄会の方達が先頭で14、5名皆が紋付袴を着けてですね。そしてここから入って今にもお届をさせて頂こうという態勢。14、5人の人達がどうも先生の、お病気の事をお取次ぎをお願いをなさる様なもので、と感じる訳ですね御心眼頂きながら。と言う様なお知らせを頂いたと言うんですよ高橋さん。どうだろう例えば菊栄会の10名なら10名が。
 本気で例えば親先生の命に関わる様な状態であり、病気であると知ったなら成程病院行きもよかろう診察もよかろう、薬を飲む事もよかろうけれどもそれよりももう一つ例えばんなら菊栄会の方達と言えば、私のまあ親衛隊とまあ自任しておる人達ばかり。昨日文男先生が始めて家内を連れて朝の御祈念に参っておりました。あら今日は家内も一緒に参って来て私それを何とはなしに有難いと思ったそしたらすぐ頂きます事がですね。
 皆さんあの、ご承知でしょうか、あの新派のお芝居にね、「湯島のしら海」と言うのがあります。あのつたらちか、主税、お蔦のね、あそこの所です。あの時にです、いよいよ夫婦が別れなければならないと言う事を、家内のお蔦に申します時にです、そんな自分は別れられない。どう言う訳で、そう言う事に成って来たのですか、と言うた時にです。お蔦が、お蔦に主税が申しております。ね。
 「実はね私とあんたの命の、命を二つ捧げても足りない程の人から、別れろと言われたのだから」とこう言うた。そこんところを頂くんですその場面。まあ例えば文男先生がそう言うたかどうか分からんにしましても、「親先生が重体だ俺達は今日はもう、一生懸命で病院行きを勧めたんだ。どうでもこうでも2、3ヶ月でよいからあ、入院して頂く様言うて来たんだ。からには俺達が信心をさして貰わなきゃならんのだ。
 それには俺とお前が一生懸命なっても足りんのだけれども、とにかくお前も頑張ってくれ。お前も朝参りをいっちょしてくれ」と言う様な風に感じたんです。私はそう言うように例えば一生懸命、例えばなら菊栄会なら菊栄会の方達を中心にして、まあ14、5名と言うんですから矢張り菊栄会だけの事じゃありますまいけれども。例えばなら菊栄会の者が10名だけでも、ここのお広前で15名だけの者でも。
 本気で紋付袴を着けた様なきちっとした信心がしかも親先生病気全快の事を、焦点に祈らせて貰う信心が出来るとするならばです、もうそれだけで結構おかげ頂くぞと云う事であった。是は高橋さんに私昨日申しました事です。「そうでございましたそうでした。私共がほんとにいわば行き過ぎであった」ね。その病院行きの事を診察なら診察の事、薬を飲んで頂く事、その事だけを一生懸命。
 糖尿病はもうその養生さえすりゃいいと言う、まあ一つ観念的なねものが御座いますものですから。ね。けれどもその位な一生懸命に親を思い、一つの一途な一念がですね。いわゆる紋付袴を着けたきちっとした信心を持って、神様に祈り願って行くならば、神様が、お聞き届け下さらん筈はなかよ高橋さん。是はどうだろかね。あんたが一つ、他の連中には、是は菊栄会だけに限った事じゃないですけれど。
 お互いがその事を本気で願うならば、ほんとに親先生が長生きのおかげを頂いて貰たいならば、本気で皆が紋付袴を着けた様な気持ちで、正確なきちっとした信心修行をさして貰うて祈らして貰願わして貰うならば、おかげ頂かれん筈はない。そして最後に申しました。「高橋さんこればまたよくよく考えよるとね、いうならあんた達の為に親先生は糖尿病にもなって御座ったと言う事も言えるね」と私が申しました。
 本当の御神意はどこにあるか。成程大坪総一郎私自身にも、もっと向上させよう、改まらし改めさせ様と言う働きもあるけれども。私のそう言う様なんなら大変な、いうなら病気なんですけれどそのその病気を通してです、是はここに御神縁を頂いておる信者氏子におかげを頂かせたいばっかり。ならただでおかげ頂かせるわけにはいかん。親先生いわば重体の、いうなら情報が皆に伝わるとするか。
 皆が紋付袴を着けた信心が、一生懸命出来るとするか。神様の願いはそのへんにある。これはいわゆる神様のいわゆる「天地の心を知った生き方」と言わなければならんので御座います。ここんところですただ「お願いいたします、お願いいたします」昨日の御理解の中にもあります。先生を病院に入れて、信者が一生懸命信心した。それで退院して帰ってみえた。「はあ、おかげ頂いた」それだけじゃないか。
 力もなからなければ受けてもおらんじゃないか。神様のお働き十二分のお働きを頂く事も、分かる事もできんじゃないか。私はね思わせて頂くのに、本当にどの様な難儀に直面いたしましても、どの様な問題に直面しましてもその時にです。その時にいわゆる「神の心を知りたい。天地の心を知りたし。天地私に心あなたの心を示して下さい」と言う様な信心が必要なのです。そして次の所なんですよね。
 「神仏の宮寺氏子の家屋敷、神の地所そのわけ知らず方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる」とこう仰る。ここんところが一番大事な所である。これはね日柄方角、方角とかそういう事に、ここはこだわっちゃならない所。何故かと言うと、例えば私は長らく支那におりましたが中華民国。あちらでは日柄方角なんかは申しません。是は恐らく西洋辺りでもそうであろうとこう思います。
 まあいうならば日本人だけの様なもの。天地の親神様ともあろう大きなお方がですよ。「日柄方角ばかり見て無礼いたし」と言う事はね、見当違いの事ばかりを見てから、と言う事なのです。ここへんはようと皆さん分からなきゃいけん。もう是はですねあの今までもう聞きも聞かなかった事。私も始めて今日分かった事。成程そうだな例えば外国の人はですね、日柄方角をそんなら見ないで。
 それから前々のめぐりを受けておらんで、皆幸せになっておるかと言うと、そうじゃないでしょうが。是はね日柄当時の教祖の、あの時代の思想と言うかね、そう言う様なものがこの「日柄方角ばかり見て」と言う事はです。いうならば家を建てるのに、この何んですかね。ここには鬼門ここは金神さんとこだと言った様な事言うて、家を建てるのにも、そのそう言う様な事を致します。
 結婚も旅立ち、もう断ち物をする。着物一つ縫うでもそうなんです。着物一つ縫うでも日柄を言うたりする。もう全然、いわば見当違いの事を言うて、幸せになりたいという、お互いの願いを持っておるわけなんです。何月何日が日が良いから、結婚式をした。それで幸せになろうとする訳なんです。と言うて、幸せになっておるわけはないでしょうが。是はどう言う事かと言うと、幸せとは、おおよそ違ったですね。
 見当違いの所に思いを置いておると言う事なんです。皆さんここんところを一つ分かって下さいよ。日柄方位ばかり見て天地に対して無礼致しおると言う事はね。しかもそれが前々のめぐりになっておる。難儀の元になっておると仰っておられる訳でしょう。いわゆるここんところがですね、見当違いの事ばかりを言うて前々のめぐりに、めぐりを作り難儀な元を作っておると仰るのですから、なら是から是を他の事へ一つ持って行かなきゃならん。親子の中でもいいです。
 子供が言う事を聞かん誰かちっと説教して貰わにゃでけん。ちと怒ってから分からせなきゃいけん。神様にも「どうぞ息子が分かります様に、分かります様に」と言う。是は丁度日柄方角ばかりを見て、天地に対して無礼いたしておる様なもんですよ。同じなんですよもう見当違いな事を言うてる訳です。だから子供が言う事聞かん子供が言う事聞かんならば、その事を通して天地の心を知りたい。天地の心を知りたい。
 どうぞ天地よ私の心にあなたの心を分からして下さい。子供のこの事を通して私に分からして九打差いと言う生き方。様々な難儀がある「どうぞ神様この難儀から助けて下さい、助けて下さい」と言うて、言うて願うと言う事。又それをですんなら医者じゃ病気じゃと、例えば医者じゃ薬じゃと言うて、んなら病気なら病気をです治して貰う。そら治して貰う事は出来るけれどもです。是はいうなら見当違いの事。
 もう一切の、例えば私共が、どうしてと思う様な事。どうしてこの様な難儀な事が起こって来るだろうか。どうして何時までも、こんな難儀が続くじゃろうか。そこでお互いが幸せになりたいから、丁度日柄方位を見る様にです、見当違いな事に手を打つわけです。「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」と言うて、手を打つ訳です。その事がですよ、天地に対して無礼になる訳なんですよ。
 その事が言わばめぐりになるのですよ。ですから難儀分からんなら分からんでもいいです。「どうしてこの様な難儀な事が起きて来るだろうか」「どうしてこんなに何時までも貧乏せんならんだろうか」「どうぞ家の息子がおかげ頂きます様に」「どうぞこの貧乏からお救い下さい」と言うてです。是はもっと先の方になって参りますとね。そういう願う氏子におかげを授けと仰っておられるからおかげは受けるです。
 先の方に御座いますでしょうが。「日柄方角ばかり見て無礼いたし、前々のめぐり合わせで難を受けおる。この度生神金光大神を差し向け。願う氏子におかげを授け」とこう仰っておられる。ですからその、そういう事でも願うて来る「どうぞ息子がおかげ頂きますように」「金銭のお繰り合わせ頂きます様に」「商売繁盛いたします様に」とお願いに来る。だからそういう願う氏子には、おかげを授けると仰る。
 けれどもその先には「理解申して聞かせ」とある。だからこの事が、いわばおかげじゃないけれども、そこんところのおかげをやらないと、氏子が天地の有難さも、神様の有難さも分からないでしょうが。だから次にはこんこんと、理解申して聞かせ、こうして理解を申して聞かせて下さる訳なんです。しかもその理解申して頂き聞かせて頂いてです、それが分からして頂いて。
 見当違いではないほんとの事に向かって、お互いが信心を進める時です。どう言う事になるかと言うとですね「末々まで繁盛いたすこと」と言うでしょう「氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つように致す」とこう仰る。末々繁盛致す事。もう末々まで親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代に広がって行くおかげが頂けれる、とこう言う事である。しかもそれは上下立つ様にそういうおかげの頂き方こそがです。
 神様が喜んで下さるのですから、神も立つ。そういう事が、私共も幸せを頂く事であるから、下も立つ。いうなら氏子も立つ。上下ね。上下、氏子上下立つ様にいたす、とこう仰る。そういう、私は、おかげを頂いて行く人達ができて来る事を、「この度、生神金光大神を差し向け」とこうおっしゃる。何の為に金光教の信心が生まれたか。是はもう私共もかじって、唯かじっただけではありますけれども。
 あらゆるどういう大宗教をの御教えを頂いてもです、この様な素晴らしい説き方をしたとこは無いです。しかも是はおそらく金光教始まって、こういう今私があなた方が聞いて貰ってるのは、こういう説き方をした人は一度でもなかろうと思うんです。ただここはただ日柄方位ばかり、方角ばかりを見てのところだけにとどまっておったんです。私はそこんところを思うんです。
 んなら日柄方角を見よらん者はですよ、家を建てるのに日柄方角もたてん、あの見らない者。そういう事を知らないしない者は、そんならめぐりを作らんで幸せになっておるかと言うと、そうではないでしょうが。いうなら外国の人でも矢張り、難儀はあると言う事なんですから。是は一つの表現で有りましてですね。その当時の教祖のご時代の信心の、まあ状況とでも申しましょうか。
 そう言う風にここをお使いになっておられる。いわゆる見当違いな事ばかりを、にあくせくとしておる。私は、ここんところを一つ、ほんとに今日は一つ皆さんに分かって貰わにゃいけん。是は大変な事です。お互いの信心がですね、もう一遍に一変してしまう。ここが分かったら。そして見当の違わない、そこまで届く事は難しいからかも知れませんけれども、方向をそこへ向ける。
 是は息子じゃなかった。子供じゃなかった。その事を通して、神の心を知りたいと願うのである。「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず」ね。先ずここんところが。天地の間におらせて頂いておる。こういう間違いのない、もうそれこそ、もう微妙な微妙な働きの中に、私共がお生かしのおかげを頂いておる、と言う体験を頂かなければならん。
 しかもその神様が、どういうおかげを私共に下さろうとしておるか、と言う事を知らなければならない。上下立つ様なおかげ。末々繁盛するおかげ。そういうおかげを私どもに願っておられる。ね。その為にはです、私共がです。もう徹頭徹尾一つの問題がありましても、その問題を「あの人がああ言うたから」「この人がこうだから」じゃなくてです。是は神様、こういう嫌な問題で。
 こういう私が損をしなければならない様な問題で。こう私が恥ずかしい思いをしなければならない様な問題で。神様は私に、何を分かれと言うておられるであろうか。そこの所を私に分からして下さい。こういう生き方になる。是をです。例えば唯、家の息子がどう、こういう嫌な問題をただ解決だけを求めると言う事であったら、是はいうなら天地に対して無礼いたす事になるのです。
 ここですよ見当違いな事に、どうしてこんなに、難儀が続くだろうかと言う事をですよ、是はお父さん、あなたの働きが足らんけんばい。是は息子がいっちょん加勢せんからよ。とにかく一家中が、とにかく勢を揃えて一生懸命働かにゃ。だからその事ばっかり願う。そうじゃない親父の働きが出来んのも。子供が言う事聞かんのも、是は私に神様が何を分かれとしておられるか。
 例えば(?)だからそこん所の神の心を私に示して下さい。と言う生き方なんです。是が分からんにしても、見当だけは、間違いのない所に見当を置いておる訳なんです。ね。全ての事に日柄方位を見ておる様な、見当違いの所に、おかげの焦点を置いておる様な事ではです、日柄方位を見てから、こう、結婚したから幸せになると言う事は、決してないのだけれども。人間の言わば儚い願いと言うか。
 少しでも良かごて、良かごとと思う心が、結局そういう事になるけれども、それは天地に対して無礼する事になる。それが前々のめぐりの元になっておる、とここにはっきり仰っておられる。是は日柄方位だけ事ではないと今日は私は申しました。お互いの見当違いの所にその問題の原因を置くと言う様な事がです。是は前々のめぐりを作る事であり、是では見当違いの信心だと言う事を聞いて頂いたんですそこで。
 私共の心の中に、例えば高橋さんの私の事の病院行きの事に付きましてもです。あまりもの神様のそれこそ切って継いだ様に一分一厘の間違いのない働きを、もう何ヵ月も前から、今日の事を神様がちゃんと計算に入れておられたと言う事を聞いてです。私を病院にどうでも行って貰わねばならんと言う、急先鋒の高橋さんが、是で分からして頂いた。ここに私共に神様は。私共に高橋さん達に。
 様は何を分かれと言うておられるか、と言う事を分かろうと努めなければならない。そして次に内田さんが頂いて居られる様に、成程私共が只病院行きの事にばかり一生懸命ならせて頂いて、裃着けた一生懸命の着けた様な紋付袴を着けた様な本気での信心さして頂いて、しかも打って一丸になってこの事を願うならば、おかげの頂けん筈はないと言う所に気が付かして貰、そして是は又後で分かる事であろう。
 親先生の病気を通して、紋付袴を着けたきちっとした信心が、いかに有難いものであるかと云う事を分からして頂く事にもなろう。そこんところにです、私はおかげをね、神様の心を一つ分からして貰う。前々のめぐりで難を受けおる。難儀の元を私共は、その様にして作っておる。そこで天地書附。「生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり」と仰るのです。
 私共の一つの和の心、賀の心賀びの心。和の心、この和の心をいよいよ、確固たるもの。いわゆる不壊のもの。「不壊の白玉」というね。どの様な中にあってもこの心だけは、例え親がどうであろうが、子供がどうであろうが、どういう難儀の中に飛び込ませて頂こうがです。この不壊の白玉は、微動だもしない。汚れもしない、傷も付かない。この和をです、頂かせて頂く事に、一生懸命努めさせて貰う。
 この和賀心におかげがある。この和賀心に例えば、天地がまるきり私一人の為に、動いて御座るかの様な、おかげがです頂けて来る。是が一遍や二遍なら偶然とも言うけれども。是が何時もの事になって来ると、神様がこの様な神愛の中に、お心の中に私を抱き抱えておって下さる様に、お守りを下さっておるんだ、と言う事が分かる。だからいよいよ有難い。そこで始めて、「天地の間におっておかげを知らず。」
 天地の間におらして頂くと言う事が、もうなんと有難い事かという神恩報謝の心が湧いて来る。その神恩報謝の心でどの様な問題が、よし起こって参りましても見当違いではない所に見当さして貰うて。見当違いでない所に焦点を置き換えて。そこから「神の心を知りたし」と言う信心にならなきゃいけない。こういう嫌な思いをさせて神様は、どう何を私に、分かれと言よんなさるじゃろうかと言う事なんです。
 あの人が私にこういう嫌な思いをさせる、と言うて、その焦点をあの人に置くでしょう。もう是が前々のめぐりになって、難を受ける訳になるのですから、そう言う様な意味合いで、なら私共が信心さして貰ながら、どの位めぐりを作っておるか分からんですよ。どうぞそこんところをですね、一つ分からして頂いてね。是は御理解第3節はもう、御理解の中でも、最高に有難いものとして、皆さんが言われます。けれども今日の所を頂いたら、もういよいよ、是は有難い事になって来るんですね。
 もう一回読みます。御理解第3節「天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々のめぐり合わせで難を受けおる。この度生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛致す事、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つ様に致す」とあります。
   どうぞ。